言語はなぜ哲学の問題になるのか パート A 読解
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目次
1章 「戦略」
パート A 観念の全盛期
1章 「戦略」
あとで書く
哲学の本を言語の分析から始めること
哲学の本を次のような形で始めることがならわしとなったのは、ミルの『論理学の体系』(1844)以来のことである 第一部、名前と命題について。
第一章、言語の分析をもって始めることの必要性について。」
1843
https://gyazo.com/faf86657ebf997d8ee00db1ad72ba921
第一章 言語の分析から始めることの必要について
1. 名の理論は何故に論理にとって必要であるか
2. 命題分析の第一歩
3. 名の研究は事物の研究に先んずる
これに先行する思想家たちが、その書物の表題において、言語を扱うことを表明する例は稀である。反対に彼らの表題は観念に関するものである。
彼らは我々と同じようなものの見かたをしていたわけではない。彼らも言語が哲学にとって問題になると考えた。しかし、それが彼らにとってどのような問題になったかを理解するためには、彼ら自身の言葉でもって彼らを理解しようと務める必要がある。
我々の思考の連鎖を言葉の連鎖とすること
1651
ホッブズはこう書いた。
「発話の一般的用途は、我々の精神的な言説を口頭のものにすること、いいかえると、我々の思考の連鎖を言葉の連鎖とすることである」
発話: speech
精神的な言説: mental discourse
口頭: verbal
1710
「言語によって記号化された観念を伝達することは、通常考えられているように言語の主要な、唯一の目的なのではない。この他にも、何らかの情念を喚起する、或る行動を引き起こしたり抑止したりする、精神を或る特定の状態に置く、といった目的が存在するのである」
これは、思考の伝達が言語の唯一の目的ではないことを示しているのにすぎないのであって、バークリー自身、言語の使用のうちに、すでに(わたしの内に)存在する思考をあなたの胸の内にも呼び起こすのだ、というとき、ホッブズ的な言語観の雄弁な再現を行っているのである
回りくどい言い方
公共的な言語に対する精神的な言説の優先
「精神的な言説」。それは言説と呼んで差し支えない程に言語に似た精神的な或るもので、論理的に見て言語に先行する何ものか、が存在するということ
17世紀の哲学的なマニュアルは、非常にしばしば我々に、思考からできるかぎり言語をはぎとるべきだと勧める。
公共的な言語は精神的な言説とちがって、あまりにも乱用されやすいという。
我々がまさに観念の中で考えることができさえすれば、我々は誤謬を犯すことがより少なくなる、と彼はいうのである。
現在の言語観と異なる。反対
現在:外的な言説に内的な言説が従属する
17世紀:精神的な言説に公共的な言語が従属する
イアン・ハッキングはここで、その時代、その時代において、言語に関するさまざまな理論が哲学にとっていかなる関わりをもったのかを明らかにしていく
この章で扱われる歴史の範囲は
「第一部(A) 観念の全盛期」では、この期間の有力であった理論を検討する
Philosophical Idealism
物質は存在せず、存在するものすべては精神的なものである。
バークリーはあらゆる時代を通じての第一の哲学的観念論者である 我々の日常言語の文は、それがあるがままの姿で、完全なる論理的秩序に則っている
17世紀にはこの格言は次のようなものであった
我々の観念は、それがあるがままの姿において完全である(ただしそのうちの幾つかは、他のものよりも、より明晰に表象されるが)
トマス・ホッブスの「名の本性」
1656
「 互いに結合されることによって我々の思考の記号( signs )となった言葉は発話( SPEECH )と呼ばれ、その各部分は名( name )からなっている。
ところで(通常言われているように)指標( mark )と記号( sign )とはともに哲学を身につけるのに必要であるということを考えると(すなわち、我々が自分自身の思考を記憶するための指標と、自分の思考を他人に知らせるための記号のことであるが)、名はこれらの役割のどちらも果たしているが、しかしそれは記号としての役割を果たす前に、指標としての役割を果たしているのである。
したがって、名の本性は主として次の点からなる。すなわち、それは記憶のために用いられる一つの指標であるが、しかしまたその偶有性からして、我々が自分自身で記憶するものを表示( signify )し、他人に知らせもする」
記号と指標
意味の理論の分類法
ideational theories
referential theories
behavioural theories
オルストンはこれら3種類の理論を、あたかもそれらがお互いに排他的で、両立不可能なものであるかのごとく扱っている
ジョン・ロックの「記号」と「指標」
ジョン・ロックは、しばしば観念説の最も代表的な論者であるとされている
1689
言葉の用途は、観念の可感的な指標( mark )となることである。そしてそれが表す( stand for )観念こそが、それの本来的かつ直接的な表示内容( signfication )である。
指標( mark )としての言葉を直接的に、自分自身が有している観念以外のものに適用することはできない
言葉は人間によって、その観念の記号( sign )として用いられるようになった
「本来的かつ直接的な表示内容」
「本来的かつ直接的な表示内容」ということで意味されているのは「意味( meaning )」以外のものでありうるであろうか。
しかし、たとえ言葉が観念の記号であるとしても、我々がこのことをパラフレーズして、「言葉が観念を意味する( mean )」といった場合、これは正しくパラフレーズしたということになるだろうか。
我々が、観念とはなんであるかということを知るまでは、こうした問いに対して確信を持って答えることができない。
トマス・ホッブズの「記号」
1656
我々が記号と呼ぶものは、我々がしばしばそれらが同様な仕方で先行あるいは後続するのを観察する場合の、その後件( consequents )に対する前件( antecedents )のことであり、
たとえば、厚い雲はそれに続く雨の記号であり、雨はその前に雲が通り過ぎたこの記号である。
その理由はただ我々は雨という後件を伴わずに雲を見るということがほとんどなく、またその前に雲が通り過ぎることなく雨が降ることはない、ということにある。
そして記号のうちの或るものは自然的( natural )であり、私はそれについての例をいま挙げたが、他のものは恣意的( arbitray )であって、我々が自分の好みに応じて作り出すものである。
すなわち、ツタの枝はそこで酒が売られていることを表示し( signify )、地面にうめられた石はその地所の協会を表示し、かくかくしかじかという形で結合された言葉は、我々の精神の思考と運動とを表示している。
自然の記号
視覚的記号
先行と後続、前件と後件
先行と後続
ある事象に対して、先行するものも、後続するものも、それぞれが記号となりうる
前件と後件
条件文「A ならば B である」
この条件文(条件式)において、「A」が前件、「B」が後件
その事象の発生した前後関係と関係なく、ただこの「A ならば B である」という形式において、その後件に対する前件のことを「記号」と呼ぶ
「厚い雲が現れた、ならば、雨が降る」という現象を観察した場合
「雲」が「雨」に先行する
「雲」が「雨」の前件、つまり記号となっている
「雲」が「雨」が降ることを表示している
「雨が降った、ならば、その前には雲が通り過ぎた」という現象を観察した場合
「雨」が「雲」に後続する
「雨」が「雲」の前件、つまり記号となっている
「雨」が「雲」が通り過ぎたことを表示している
記号「A」の定義
「A」は、規則的に「B」に先行するか「B」に後続するとき、「B」を表示する
言葉は「我々の精神の思考と運動とを表示している」記号である
「言葉」は、規則的に「精神の思考と運動」に先行するか「精神の思考と運動」に後続するとき、「精神の思考と運動」を表示する
つまり
「言葉」は、規則的に「思考」に先行するか、または「思考」に後続するとき、「思考」を表示する
このとき「言葉」は「思考」の記号となる
ホッブズは意味の観念説、指示対象説、行動説の三つすべてを主張していたように見える
ホッブズは意味についての観念説をとっていると想定されてきた。このことは(オルストンよれば)意味の指示対象説をとることと両立しないはずである。
彼が実際に述べていることは、意味の指示対象とも完全に両立可能である
「 stone というこの語の音が一つの石の記号であるということは、次のような意味においてしか理解されない。すなわち、この音を聞いた者が、この音を発した者は一つの石のことを考えていたと推察する、ということである」
つまりホッブズは意味の観念説、指示対象説、行動説の三つすべてを主張していたように見える
ホッブズは意味の観念説、指示対象説、行動説の三つすべてを主張していたのか
もう一つの可能性は、これら三つのカテゴリーは、もっと現代的な理論にとっては適切であるとしても、ホッブズを分析するためには正確なカテゴリーではない、という可能性である
じっさい、ホッブズは哲学にとって言語が問題であるとはっきり考えていたが、しかし彼が意味の理論を一つも持っていなかったということもありうる
ホッブズは思考することについてはたしかに何らかの理論をもっていた。
我々は今日、ますます思考と言語を結びつけて考える。
精神的言説は、それが公共的言語に補助されるという点を除けば、自律的なものであると考えられていた かつて言語は、現在の我々が考えているような主題ではなかった
現代の哲学者たちはこの考えに反対する。哲学者たちがこれに反対するのは、現在、我々が言語に関して正しい理解をもち、ホッブズの誤りを正すことを学んでいるからだろうか。
おそらく、現在、我々が考えているような言語は、以前には人々がそれについていろいろ考えることができるような主題ではなかった
それは一つの新しい現象を取り扱う主題なのである。
知識と思考と言語との関係は、我々の時代にあっては、それがかつてそうであったものと同じではない
我々は今や、言語についてのラディカルに異なった哲学を習得してしまっているのである
ホッブズは意味の理論を持っていなかった
ホッブズはたしかに表示作用に関する理論、すなわち記号関係についての理論をもっていたが、しかしこの記号関係は直接的な先行―後続関係ということに関わっている。
先行―後続関係
ただ、条件文における先件と後件の関係を指す。それ以上でもそれ以下でもない
ホッブズが意味についての何らかの観念説、指示対象説、行動説を主張していたという証拠はほとんどない。これら三者のそれぞれは、他の二つと両立不可能であると想定されているにもかかわらず、ホッブズが述べていることと完全に両立可能である。
私は、彼が「独特の意味に関する私秘的(プライベート)な理論」をもっていたりはしなかったと思う。
この「独特の意味に関する私秘的(プライベート)な理論」はピータースがホッブズの観念的な見解を否定する文章の中で用いられている
なぜなら彼は意味の理論を何ももっていなかったからである。
見知らぬ土地に高々とかかげられている案内標識のようなもの
ホッブズはたしかに、(ピータースが表現したように)言葉は「見知らぬ土地に高々とかかげられている案内標識」のようなものであると信じた、ということはその通りである。
「言葉」は精神に対して「思考」をもたらし、「思考」もまた「言葉」の生産へと導く。
この理論に対して(現在の哲学者たちの間には)ピータースが念頭においているような反論が存在する。すなわち、ホッブズがいうような意味で、言葉がそれの記号となるような当の事物は一般には存在しない、と論じられるのである。観念が登場するのはこの場面においてである。それは、我々の言葉がそれの記号となるところの当のもの、と想定されている
言葉は観念の記号であると想定されている
現在活躍中の哲学者たちの間で最近強調されていることは、次のようなことである。(これはウィトゲンシュタインの例であるが、)私がたとえば "March!" と叫んだ時、一般的に言って、私の精神の内に何らかの特定の観念が存在する必要はない ― ただし、それは「観念」という語の我々の意味においてであるが ―。
「観念」という語の我々の意味において
(現在におけるこのような批判に対して、)しかし "march" という語がそれぞれの場合にそれの記号となっているところの観念というものが、「観念」という語の別の意味で存在していなかった、ということはいかなる意味でも直接的に証明しない。
観念というものが、現在の「観念」という語とは別の意味で存在していたかもしれない
当時の観念というものと、現在の観念というものは異なるものなのかもしれない(いや、異なる)
このような可能性を探るために、我々は「観念」というこの難解な17世紀の言葉を理解しなければならない
それが結局最後に、現在、なぜ哲学にとって言語が問題になるのか、を我々に説明するのに役に立つであろう。
もっと控えめなレベルで、ホッブズが「言語は哲学の問題になる」と考えた事情とは、 その当時現れた考え方の標準的なものであるとみなされている
個人はその生が「穢らわしく、野蛮で、短い」
であるから個人は、至高の権力を持つ国家と契約を結ぶ必要がある
だから、言語は国家にとって周辺的なものではない(言語は国家にとって中心的なものである)
『リヴァイアサン』のような政治理論に関するホッブズの主要な著書は、すべて人間本性と人間の意思伝達についての研究から始まる 政治的動物は必然的に話す動物である
ホッブズは政治を理解するためには、発話についての正しい理論が必要、と考えた
現代の哲学は、精神的言説と公共的言説の関係の理論を放りだしたが、個人と国家の関係の理論はいまでもしっかりと保持している
彼の意見によれば、政治における公共的言説は、全面的に精神的言説に寄生している。
国家の場合、個人は国家に先立って構成されており、国家は個人の必要と彼らが結ぶ契約ということによって、はじめて意味をもち、またその強制力を発揮する
個人 ⇒ 国家
同様に精神的言説は、公共的言説に先立って構成されており、公共的言説は精神的言説から派生したものに他ならない
精神的言説 ⇒ 公共的言説
現代の経験主義的哲学は、精神的言説と公共的言説の関係の理論を締め出し放り出したが、個人と国家の関係の理論についてはジョン・ロールズ『正義論』に見られるごとく、いまだにしっかりと保持しているのである 3章 「ポール・ロワイヤルの観念」
『論理学、あるいは思考の技術』
1662
"La logique, ou l'art de penser"
二人ともジャンセニスム派というカトリック教会内部にとどまっていはいるが時として法王庁から弾劾を受けずにはいなかったところの一つの異議申し立てグループ ― そのメンバーの大部分は知識人からなっていた ― に属していた アリストテレス以降、19世紀の終わりまでで最も影響力を持った論理学の本で、19世紀末まで影響力を持っていた 「観念」という異種なるものの集合のまぎれもない不可能性
バークリーは『人知原理論』の序文において、自分は言語について論じるつもりだ、と述べることから始めながら、直ちに観念の問題を取り上げている。彼の精神の中ではこれら二つは緊密に結びついているのである。 英国の注釈家(註釈家)たちは、バークリー自身によるおびただしいロックへの言及に注目し、その意味を理解するためにロックの方へお伺いをたてる そして絶望する。
ジェフリー・ワーノックの場合
「『観念』という言葉で彼が意味するのは、彼自身認めているように、ほとんど、人が好きに選んだ何でもよいのである。
『何であれ人が思考するときに互生の対象となるものすべて』であり、それは『想像、概念、形相』と同一のものを意味し、それは知覚の対象を一般的に代表する、と言っているのである」
デイビッド・アームストロングの場合
「ロックは『観念』という語を非常に幅広い仕方で用いる。それは少なくとも次のものを含んでいる。 (a) 感覚知覚(感覚印象)
(b) 体感(痛みとかくすぐったさのようなもの)
(c) 精神的心象(イメージ)
(d) 思考と概念
「その百科事典にはこう書かれている。 ― 動物は次のように分類される。
(a) 皇帝に属するもの、
(b) 香の匂いを放つもの、
(c) 飼いならされたもの、
(d) 乳飲み豚、
(e) 人魚、
(f) 寓話に出てくるもの、
(g) 放し飼いの犬、
(h) この分類自体に含まれるもの、
(i) 狂乱状態のもの、
(j) 数え切れぬもの、
(k) 駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの、
(l) その他、
(m) たった今、ツボを壊したもの、
(n) 遠くから蝿のように見えるもの」
フーコーはそのパラグラフを次の言葉で締めくくっている。 「我々の思考の限界、『そうしたもの』を思考することのまぎれもない不可能性」。
ワーノックとアームストロングは、ロックやバークリーの観念について考察しながら、明らかに我々がこのシナの動物の素晴らしい分類に対して覚えるのと同じ経験を、経験しているのである。
「観念」という異種なるものの集合のまぎれもない不可能性。
「観念」という言葉くらい明晰なものはないのである!
「幾つかの言葉は他の言葉によっては説明されないくらい非常に明晰である。というのも、それより明晰で単純な言葉は他のどこにもないからである。『観念』はそうした言葉の一つである」
これらの著者にとって、観念は、およそ想像しうる最も基本的な種類の事物であり、定義不可能なものである。
「私は厳密に千の辺からなる図形の心象を形成することはできないが、千角形について正確な推論を行うことができる。そして、このことは観念の把握を含んでいる。同様にして我々は神の観念や自由意志の観念をもつが、しかしそれらの心象を形成することはできない」
しかし、なぜそもそも心象と推論の対象が同じ集合に入れられるというようなことがあるのか。
カントは「イデー」(Idee) という語をプラトンの用いた意味であるものにまで巻き戻した上で次のように言っている 「誰であれこうした区分にこれまで少しでも通暁している者は、色の表象、たとえば赤の表象がイデー(理念)と呼ばれているのを聞くのは耐えられないことと考えるにちがいない」
「存在に関するコミットメント」
我々にとってまぎれもなく不可能であり、カントにとって耐えられないものが、英国における『ポール・ロワイヤル論理学』の信奉者たちにとっては、明瞭さと単純性のパラダイムであるというのはなぜなのだろうか? 「我々は自分の外のものについての知識を、我々の内なる観念の媒介なくして得ることはできない」
また、これを意識の「内部」の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。
ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。
「一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない」とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見つけようと試みた。ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。そして、このようなものとは、実は「絶対確実なものを見つける」という試みそのものを可能にする、「私は考える」という事実であった。
これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」や「もっとも確実な観念はなにか」といった問いがあげられよう。
デカルトは、主体的に自己存在を自覚することのできる人間の思考、即ち「自我」に注目した。 自我というものは、空間内における物理的実在としてはその存在を認めることができない反面、他者の存在を認知するおおもととしてのそれは否定し得な い実在であるという二面性を持っている。
その内なるものを黙想することのできる自我が、その外なるものについて考察する。 我々が論理的に自我以外のものの存在にコミットすることなく黙想することのできる、ある対象が存在する。この対象が観念である。 コミット
そのことに密接な関わり合いを持つこと
コミットメント
責任を持って関与すること
commit
義務を負わせる、義務づける、言質を与える、約束する、明言する
commitment
約束、確約、積極的関与、傾倒、肩入れ、投入、責任、義務
「存在に関するコミットメント」(existential commitment) が何か、についての例
誰かが私に電話をかけてきて、今私が何をしているのかと問うたとしよう(「あなたな何をしているのですか」)。そして私が「私はあなたがくれた料理のメモを使って、グリーントマトのチャットネを作っているのです」と答えるとしよう。この答えは何らかの料理が行われており、私が料理のメモをもらっている場合にのみ真となりうる。私の返答は私に対して、自分自身以外の他のものの存在についてもコミットさせている。
それにたいして
「あなたは何を考えているのですか」「グリーントマトのチャットネを作ることについて(考えている)」。この返答は私自身以外の他のものの存在を含意していない。
「(あなたには)何が見えますか」「私にはグリーントマトが見えるように思えるのですが」。そこに何も存在しなかったとしても、誤って語ったことにはならない(偽とはならない)。
「誰が今晩チャットネを作れと言ったのですか」「神が言いました」。私の言葉は神を含意している。
「あなたは何について証明しようとしているのですか」「私は神の存在について証明しようとしているのです」。私は自分が神が存在することを希望していること、およびその存在が証明しうることまでも希望していることを示しているが、自分の希望がかなえられるであろうという主張については、自分自身をコミットさせてはいない。
自分自身(私自身)の存在以外のなにものの存在についてもコミットせずに黙想することができる対象は、いずれも一つの観念である
私のくすぐったさ(体感)、心象、概念、現に与えられているように思われる感覚印象、希望されている証明、これらはすべてこのカテゴリー(観念)の中に入る
しかしこれらは、全然「対象」とはいえないものではないのか。対象(オブジェクト)とは車のキャブレターや硬貨、あるいは料理の本といったものである、と我々はいう。
けれどもここで我々が関わっているのは、フーコーが(ボルヘスの言っていた)シナの動物たちについて書いていたように、「別の思考システムのもつエキゾチックな魅力」についてなのだということを思いおこそう。
この別のシステムの中では、「対象」が我々のシステムと同じ場所にとどまっていることは期待できない
「主体」(サブジェクト)と「対象」(オブジェクト)の意味上の転倒
エリザベス・アンスコム "The Intentionality of Sensetion: A Gramatical Feature" 感覚の意図性:文法的特徴
「バークリーは『色相に関する多様性と明暗に関するさまざまな割合とからなる色』を、視覚における『本来的』かつ『直接的な』対象である、と呼んでいる。
この『視覚の対象』という語句にあらわれる『対象』(オブジェクト object )という言葉は、これと結びついている『主体』(サブジェクト subject )という言葉と同様、哲学史の内で一種の意味上の転倒を被ったのである。
『対象』(オブジェクト object )
『主体』(サブジェクト subject )
サブジェクトは、かつては、例えば命題がそれについての命題であるところの当のもの、認識という処理を得る以前の、それ自体において実際に存在しているとおりのもの、のことであった(この場合、認識においては一種の処理が存在した)。
主体
自分の意志で行動するととらえられるもの
対義語: 客体
客体
自分の外にあって、自分がそれを冷静に観察することが出来るすべてのもの
これに対してオブジェクトは、かつては、常に『何ものかのオブジェクト』( object of ~ ) であった。欲望の対象、思考の対象は、我々の現代の意味でのオブジェクト、すなわち、『告発されている人物のポケットの中に見出された事物(ここでアンスコムは"硬貨"を暗喩している)』のような個別的な事物ではなかった。
対象
それに向けて何らかの行為・精神的活動を行ったり、感覚器官を働かせたりする人や物事
個別的な事物
個物、指示対象
ここでハッキングが触れている(アンスコムが言っている)、「意味上の転倒」は、哲学が日本に輸入されて日本語で翻訳された際にはすでにこの転倒が起こっている
西周が『生性発蘊』を書いたのは1873年 明治6年
であるから、日本語で書かれている文章では、細心の注意を払わないと、意味をとることができない
『対象』(オブジェクト object )のパラダイムが観念であって個物ではなかった
アンスコムのこの文章をうけてハッキングはこう言う
「対象」のパラダイムが観念であって硬貨ではないということは、この「思考のエキゾチックなシステム」の魅力(あるいは、的外れであること?)の一部をなしている。
はたして物質的な硬貨や料理の本もまた対象であるか否かという問題は、おそらく、当時の形而上学の主要な問題であった。
ロックは「然り」と答え、バークリーは「否」と答えた。
ロックは個物も対象であるといい、バークリーはそれは対象ではないといった
「バークリーはあらゆる時代を通じての第一の哲学的観念論者」である
私はこれらの対象、すなわち観念が、黙想されるもの( contemplated )であると用心深く述べてきたが、観念が対象であるということは物語の半分であるにすぎない。
残りの半分は、観念による推論が、見ること( seeing ) に似ているということである。
「観念」という言葉には「観る」の字が含まれている
「我々が、自分の精神的直観をどのようにして用いるかについて学ぶためには、我々が眼を用いる方法と比較するのがよいであろう」 (規則9)
我々は自分の観念を視なければならない。「それらを互いに分離し、そしてそれらを別々に確固たる精神をもって吟味すること」。我々の思考は「魔術的な言葉」によって混乱させられるだろう。それを避けようと思ったら、観念へと戻ることである。「我々はそれら観念を互いに分離し、そして自分自身がその個人的な注意力をそれらの一々に対して与え、我々の各々が所有している精神の光の程度に応じて、それらを研究することに満足をおぼえなければならない」(規則13)
精神の視覚(メンタルビジョン)
「精神の視覚」というこの死滅した概念は、我々にとって理解することがきわめて困難なものである。
この考えは、観念が心象(イメージ)のようなものだという考えではない。
最も高度な推理過程は、神や意志といったものを、その対象としてもつが、これらは原理上、我々がその心象を描くことのできないものである。
幾何学上の複雑な議論も、我々が事実上その正確な心象をもつことができないような対象をもっている
「千の辺からなる図形の心象を形成することはできないが、千角形について正確な推論を行うことができる。」
しかしそうであったとしても、そうした概念に対する我々の理解のモデルは視覚なのである。
と述べたあとで、ハッキングは証明の例をあげる
近年では証明の妥当性は、その証明を表現する諸命題の形式によって判断される、というのが普通の考え方になっている。
しかしデカルトにとっては、証明とは人がその眼から物差しを取り出して、それによって真理を見ることが可能にするような、一つの手段にすぎない。
最近の数理哲学者たちの多くは、証明はそれがある適切な形式的言語に表現されてはじめて認識されると考えた。
他方、デカルトは、証明とは言葉を取り除き、人が観念間の連関を確固とした仕方で知覚できるようにする手段である、と考えた。
かくして我々は、観念を精神的視覚の対象として考えなければならない。
"Now I see."
我々は今なお、ある議論によって納得させられたとき、「なるほど、わかりました」"Now I see." という慣用句を用いる。
説明とは今なお、「明示」( Demonstration ) のことである。
Demonstration
From Middle English demonstracioun, from Old French demonstration, from Latin demonstrationem, from demonstrare (“show or explain”), from de- (“of or concerning”) + monstrare (“show”). Morphologically demonstrate + -ion
明示
はっきりとわかるように示すこと
『オックスフォード英和辞典』は "see" の項の下に次のように書いている。
「視覚の感覚は、外的対象に関して他のいかなる感覚にもましてきわめて完全な確定的な情報を与えるので、精神的知覚( mental perception )は、多くの(おそらくはすべての)言語において、それがメタファーであるという意識をほとんどあるいはまったく伴わずに、視覚に関する用語によって言い表されるのである」
「視覚」という概念の転倒
我々は「視覚の感覚」が、あらゆる変転する概念の世界にあって、固定された、確固たる概念である、と感じている。
しかし、デカルトが視覚について我々と同様に考えていたと想定する理由はほとんどない
デカルトの時代には、観念がその中心にあった。対象(オブジェクト)は裏返しにされていて、我々が現在、主観的、サブジェクティブ( Subjective )と呼ぶものが、当時はオブジェクティブ( objective ) と呼ばれていたのであった。
Subjective
主観的
objective
客観的?
このような世界の中で「視覚」だけが行儀よくその場所にとどまっている、と期待することはできないであろう。
この後、ハッキングは13世紀のフランス語について述べていて、そこでは、その当時の人たちは「あたかも聴覚や嗅覚の宇宙に住んでいて、視覚の対象はほとんど意識にのぼることがないような話し方をしていた」と言っている。つまり歴史上、そういう概念の転倒、変転があった、ということ
デカルトの世界は、徹底的に視覚的である。
眼でもって視るということは、精神で知覚するということだったのである。
さきに引用した 『オックスフォード英和辞典』の文章を逆にすると、
「視覚的知覚は、それがメタファーであるという意識をほとんどあるいはまったくともなわずに、精神的知覚に関する用語で言い表された」のである。
メタファーではなく、実際そのまま、そのとおりだった
知覚するとはいわば、対象を透明にすることである
知覚するとはいわば、対象を透明にすることである。知覚するとは、そこから事物の観念が出現してくるところの、どことは指定できないある原初的な場所から発出する光を使って、或るものを透視する(see through)ことなのである。
18世紀の終わりに、こうした視覚のあり方に対して、我々のような視覚のあり方がとって替わった。対象は不透明になり、精神的光を透過させるかわりに、物理的光に抵抗するものとなった。
転換点は、18世紀の終わり
「日本語版への序文」にこのあたりのことが書かれている
もしくはこのあとの章で書かれているかも
デカルト的な知覚は、対象を精神にとって透明なものとする積極的な働きかけである。
実証主義的な視覚は、それ自身が受動的で観察者に対して無関心であり不透明で不透過であるところの「物質的対象」の上の光線を、さらに受動的に弱めることである
観念をめぐるこの見知らぬ理論の要点
第一に、自我とそれ以外の世界とを媒介する一つの対象の集合が存在する。これらの対象は観念と呼ばれている。
第二に、我々は視覚に類似した能力によって観念を意識する。視覚はこの観念の意識の一部分なのである。
第三に、ホッブズを思い出すならば、言葉は観念を表示するが、この表示作用はほとんど因果的な性質をもった、先行関係あるいは後続関係である。
17世紀の世界における言語の哲学とは
哲学することから公共的言説をそぎ落としたあとで、観念の連鎖、精神的言説へと専念すること。この言説が、哲学にとって関わりをもった言語そのものなのである。
今日の哲学者は精神的言説といったものが存在することを否定するであろう。しかし17世紀の世界観にとって中心的な存在であった精神的言説が、今日、公共的言説が果たしている役割と同じ役割を当時果たしていたという可能性は残るのである。
4章 「バークリー僧正の抽象作用」
観念論者(アイデアリスト)
バークリーは観念論者であった。 ― つまり、観念主義者( idea-ist )であった。
彼は唯一存在するものは精神的なものであると考えた。
彼は普通の人が信じているものは何も否定するつもりはないのだ、と言っている。おそらくはそうなのだろう。
たしかに彼は、去年の春、森にスミレが咲き乱れていたことを否定はしないだろう。
しかしそうであるとしても、我々が森について語るときに、あなたや私が述べていることを、彼もまた述べているのかどうかは曖昧である。そして春の花については我々と彼の間に何の違いもないとしても、彼が、今日、普通に言われていることを否定しようとしたことはたしかなのである。
ロバート・ボイルの粒子哲学
我々はみな、世界は部分的には原子と分子からできていると信じている。
こうしたたついの理論はバークリーを激怒させた。
ロバート・ボイルと結びつけて考えられ、ロックによって英国の公式な哲学に転ぜられた「粒子哲学」上のもろもろの教義は、1700年には英国の知識人の精神をすでに捉え切っていた。
サー・ロバート・ボイル(英: Sir Robert Boyle, FRS, 1627年1月25日 - 1691年12月31日)は、アイルランド・リズモア出身の自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロー。ボイルの法則で知られている。
ボイルの研究は錬金術の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とされることが多い。特に著書『懐疑的化学者』は化学という分野の基礎を築いたとされている。
『懐疑的化学者』(かいぎてきかがくしゃ、英語:The Sceptical Chymist: or Chymico-Physical Doubts & Paradoxes)は、ロバート・ボイルにより1661年にロンドンで出版された本。対話の形をとり、懐疑的な化学者が、物質は運動中の原子および集団からなり、すべての現象が運動中の粒子の衝突の結果であるというボイルの仮説を提示するものとなっている。
17世紀において、原子論的な自然観が復活した
物質は小さな粒子から構成されていると想定された。
バークリーはあまりに厳しい情念をもって物質を憎悪した。
第一次性質、第二次性質
ボイルとロックによって要請された物質は、第一次性質(形と大きさと運動、ならびにおそらくは硬度)は持つが第二次性質(色、暖かさ、あるいは味)は持たないところの、微小粒子からなり立っていた。
第一次性質・第二次性質
イギリスの哲学者ロックの認識論的用語。
第一性質は認識とは独立に客観に備わる性質で、延長、固体性、数などがあるが、
対照的に第二性質は「対象そのものにおいては、第一性質によりわれわれのうちに多様な感覚を生ずる力」にすぎない。つまり、色、音、香り、味のように対象それ自体にはなく、認識と相対的な主観的性質である。
ロックはこの区別を、ガッサンディ、ボイルらの当時の自然科学者から継承した。第一性質に固体性を数えたことはデカルトとの相違である。
第二次性質は、この微粒子が我々の網膜や味蕾の上ではね返った結果として、我々のうちに生みだされたものにすぎないのである。
バークリーは、この第一次性質と第二次性質の区別そのものが、彼の時代の自然哲学によって、世界に対しておしつけられたところの、不条理な誤謬であると考えた。
粒子哲学は人々を無神論に導き、観念論は人々を宗教に導く
バークリーの哲学営為の一つの道筋は、第一次性質と第二次性質の区別を論駁し、ロックのいう、不活性で魂がなく色もない物質という概念、そのものを土台から突き崩そうとすることであった。
ロックの知覚に関する実在論的理論によれば、我々の観念は何らかのしかたで、我々の外にある物質的なものを表象するとされる
彼は当時の最新の理論的風潮が、信仰にとって悪しきものだと考えた。
粒子哲学は人々を無神論へ一直線に導くか、あるいはそれを含意することさえある
観念論は宗教をふたたび確立させるであろう、という
バークリーは因果の概念に関するラディカルな転換ということに参与していたのであり、
この概念はさまざまにもつれあった仕方で、しかしまた根本的な仕方で、表示作用という概念と結びついていた
1710
バークリーは新しい科学的発見や仮説の一つ一つに対して敏感であった。それが人間の生と知識のあらゆる他の側面にどのように相互に関連するものであるかを見てとっていた。
(バークリーの)自然科学に対する侵略行為のなかで唯一成功したのは『視覚新論』のみ バークリーの代表作は『人知原理論』である。この著作には序論がついているが、この序論はほぼ全面的に、また本文とは独立に、ある一つの議論に費やされている。 そこではこの議論が、言語と関わりをもつものである、と表明されている
「読者が以下に続く議論を容易に知解しやすくするために、ここで序論として、『言語』の本性とその乱用ということについて、前もって述べておくことが適切であると思われる。
ただし、この問題を解きほぐすことは、人々の思弁をこんがらがった混乱したものにし、知識のほとんど全領域において数限りない誤謬と困難とをひきおこすことの主要な原因となってきたと思われるものについて、注意を払うことになるので、それは私の批判の対象をあらかじめ知らせることにもなる。
その対象とは、精神は事物に関する抽象的な観念や概念を形成する力をもつ、という意見である」
観念という概念の三つの要点
1. 自我と世界とを媒介するところの一つの対象の集合というものがあり、この対象が観念と呼ばれる
2. 我々は観念を、視覚に類似した能力を通じて意識する。ただし、観念は必ずしも単なる心象であるとは限らない。また視覚のモデルとなっているのは、外へ向けた「見ること」ではなく、内的な「知覚」である
3. 言葉は観念を表示するが、この表示作用は必ずしも「意味」( meaning ) として構成されているわけではない。というのも、それはほとんど因果的な性格をもった先行―後続 関係であるからである
普遍は存在しない
これらの要点から、
この理論のうちには、一つの言葉、たとえば「雨」が、その正確な使用の都度、一つの同一の観念の記号とならねばならない、ということを要求するものは、なにも含まれていない。
二つの場合
ケンブリッジの霧雨
赤道近く熱帯(カンパラ)の土砂降りの雨
「雨」という語はその二つの使用の状況において、二つの異なった雨の観念を表示するが、それはどちらの場合にも、(同じホッブズ的意味からして)雨の観念を表示する。
これら二つがともに表示するところの、雨の観念という単一の事物が存在する、ということは導かれない。
ホッブズ的意味
先行と後続、前件と後件
「雨」は雨という普遍的な観念を表示する必要はなく、ただ雨に関するあれかこれかの観念を表示していればよい。
ユークリッド幾何学の三角形、抽象観念
ただ単に世界を記述することしかしていないのであったら、これ以上の問題は生じない。普遍( universals )は存在しないのである。
しかしながら、我々はただ報告したり、けなしたり、讃嘆したりしているばかりではない。
我々は推論にもたずさわる。
我々がユークリッドの幾何学を勉強しているとき、我々はさまざまな三角形の性質を証明する ― 全三角形の性質を。(デカルトにしたがうならば)我々は、「確固たる精神的注視」をもって、観念に目を向けることによってこれを行っているのである。
「確固たる精神的注視」をもって注意を向けるべきところのその対象は、ある個別的な三角形ではない。
三角形にちての或る一つの観念を見ているのではなく、三角形すべてに普遍的なものをみているのである。
我々は個別の三角形にとっての特殊な事柄について推論するのではなく、すべての三角形について推論する。
そしてこの共通なものそれ自体が、精神的注視にとっての対象でなければならないはずである。
最初の観念論者であるところのプラトンは、幾何学を学問研究の必須科目にした。もっと後の時代にも、たしかにそれは抽象観念の存在を信じるために最も重要なものであった。
17世紀の観念という概念の要点(改訂版)
1. 自我は、内と外とを媒介するところの観念を有する
2. 自我による観念の認識モデルは知覚である
3. 言葉が観念を表示する
4. 「精神的視覚」の対象たる抽象観念が存在する
「普遍の問題」( the problem of universals )
バークリーはこの第4の要点を、哲学上の悪の根源だと信じたのである。
現代の注釈家たちは、バークリーが主として関わっているのは「普遍の問題」( the problem of universals )である、と理解してきた。
哲学者たちがその時代時代に「普遍の問題」と呼んできたものには、きわめて多くの問題がある。
今日人々に好まれているものの一つは「一般名辞」( general term )はどのようにして意味をもつことができるか、という問いである。
名辞
論理学で概念を言語により表現したもの。
言葉が文の要素であるように、概念は命題の要素である。概念が言葉で表現されたものを名辞(めいじ)という。ひとつの命題として
A は B である
とした場合に、「A」を主辞、「B」を賓辞という。
特に抽象名辞(抽象概念)は、言語や数字や記号で現実世界を表す。または現実にないものをあるものとして存在させるために表現する手段である。
一般名辞
普通名詞に相当する名辞を一般名辞、または共通名辞と言う
果物や野菜など同じ物が複数並んでいるとき、その個々を特に区別しない名前が普通名詞
人を表す、やや具体的な用語「父・母・兄・弟・姉・妹」などが普通名詞
個別には氏名があり、これを固有名詞と言う。一つしかないもの
家族的類似性
ウィトゲンシュタイン
おそらくこれらはプラトンの思想のある部分において、中心的問題となっていたものである。
17世紀の「観念」という概念は、その語源的源泉であるプラトンのそれとは根本的に異なったものである。
バークリーは、はっきりと、17世紀の観念の理論のうちには、一般名辞の意味に関するようなものは何もない、と見ていた。
何もない、つまり、一つの対象を必要とすることになるような、精神的視覚としての幾何学的証明の理論、以外には何もない、ということである。
このことはバークリー自身の(人知原理論の)「序論」によってはっきりと確証されるのである。 本の中では「序文」となっているけど、日本語版では「序論」が正解
「序文」は、なぜこの本を書いたのかと、全体を通読して読むように、とかかれている。原文では第2版以降に削除されているとのこと
https://gyazo.com/faba95f350af7d815e6dee7d776b3c1b
目次
序文
節番号なし
序論
抽象的観念の学説が諸悪の根源である(第1節~第6節)
この学説の概要 (第7節~第9節)
この学説を論駁する (第10節~第17節)
この誤謬の起源は言語である(第18節~第25節)
この序論の中で彼は、証明の中で一般名辞がどのように生じるのかについて気遣っている。そして彼は、我々がいかにして、熟視すべき抽象観念をもつことなく、幾何学上の推論を行うことができるかを説明しようとしている。
彼が主張することによれば、我々は証明において、その推論の或る段階において、推論の対象として一個の個別的な三角形の観念しかもっていなくとも、一般的な結論に達することができる。
そして自分にとって大事なパンチラインが現れる
現代の論理学、とくに1930年代にゲルハルト・ゲンツェンによって創案された「自然演繹法」と呼ばれる論理学の形態は、バークリーの個別対象による証明概念について、その形式の裏付けと分析を与えることができるかもしれない。
だがしかし、このパンチラインは、この本の本筋からは外れるので、このまま捨て置かれるのだった
我々がここで問題にしているのは、バークリーの議論がいかに正当なものであるか、ということではなく、
ただ、その議論が何であったのか、ということを知ることである。
抽象観念が存在していないことを決して論証してはいないのである!
バークリーはその「序論」で、抽象観念が存在していないことを決して論証してはいないのである!
というふうに、ここで泥沼に入っていくので、原典にあたってみることとしました
『人知原理論』序論 第10節
私は自分が、そのように分離してしまっては存在しえない諸性質を、たがいに抽象することができるとか、分離して把握することができるということを否定する。あるいはまた、自分がこうした仕方で個物から抽象することによって、一つの一般概念を形成できるということを否定する
ちくま学芸文庫版
私はある意味では抽象することができると認める。つまり、何らかの個別的な部分や性質が他の部分や性質と何らかの対象において結合しているけれども、しかしながら他のそれらがなくてもじっさいに存在することが可能である場合には、こうした部分や性質を他のそれらから分離された(separated)ものとして考えることができる。
しかし、そのように分離して存在できない諸性質を互いに切り離す(abstract)ことができる、つまり分離したものとして(separately)考えることができるということ、あるいは、前述の仕方で個別的なものを捨象することによって一般的概念(general notion)を形成できるということ──、これら二つのこと(23)が抽象の本来の意味であって、私はこの意味での抽象を認めない。
バークリーは自分の内に、不等辺でも二等辺でもない、ただの三角形、といった抽象観念を、一つも見出さないと言っている
『人知原理論』序論 第13節
もし誰かがその精神の内に、ここで述べたような三角形の観念を形成する能力をもつのであれば、彼に対してそれを論駁しようと努めることはむだであるし、私もそんなことをするつもりはない
ちくま学芸文庫版
もしも誰かがここで記述されているような三角形の観念を自分の精神のなかで形成する能力をもっているとするなら、あえて彼と論争してこの能力を否定しようとしても無駄であろうし、私としてもそんなことをするつもりはない。
「ここで記述されているような」の「ここ」とはジョン・ロック『人間知性論』第4巻第7章第9節 を指す
バークリーは抽象観念が存在していないことを論証しない
なぜ論証を回避するのか
観念の理論の第二点、観念とは視覚に似た能力の対象である、という点を受け入れているからである。
人が直接調べてみることによって知りうることを、論証してもはじまらないので、バークリーは論証しないのである
『人知原理論』序論 第13節
誰でも容易になしうることである
三角形一般の観念を
もつかどうか、あるいはもちうるかどうか、自分自身の精神を少しでものぞきこんで、ためしてみる以上に簡単なことがあるであろうか
ちくま学芸文庫版
読者に望みたいのは、こうした観念をもっているかどうかを十分かつ確実に調べてほしいということだけである。そして、これはけっして難しい仕事ではないと思う。自分自身の思考のなかをほんの少し覗き込んで、三角形の一般的観念についてここで与えられている記述にかなうような観念、つまり、斜角でも直角でもなく、等辺でも等脚でも不等辺でもなく、これらのすべてであると同時にこれらのどれでもない三角形の観念を自分の心のなかにもっているかどうか、あるいはもてるようになるかどうかを試す以上に容易なことがあるだろうか。
バークリーが否定している抽象観念とは
現代の読者はしばしば、バークリーが望んでいることは、人が抽象的な三角形の心象をもっているかどうかを調べてみても見出しえない、ということであると考えがちであるが、彼が求めているのはそのことではない。
彼が否定しているのは、視覚によく似た能力であってしかもその対象として観念を有する能力が、その対象として何らかの抽象観念をもつということ、そのことである。
だれもが三角形を思い浮かべる時、なにがしかの三角形の観念を持つが、その三角形の観念が、なにものでもない(不等辺三角形でも二等辺三角形でも直角三角形でもない)ただの三角形という抽象観念をもつことがない、ということ
なにがしか、個別の観念を思い浮かべているということ(ということ?)
彼はさらにつけ加えて、我々は幾何学的証明においてそのような対象(抽象観念)を必要としていない、という
デカルトが我々に対して「魔術的言葉」を避けて観念に戻るように、と言っていたことを思いおこそう
バークリーはこの広く支持されていた考えを格別にきつい言葉で記している
『人知原理論』序論 第10節
私が自分自身の思考を、言葉をはぎとった自分自身の観念に限定するならば、私はどうして誤りうるのか理解できない。私が考察する対象を、私は明瞭かつ十全に知る。私は自分が有していない観念を、自分が有していると欺かれることはありえないのである。
ちくま学芸文庫版
言葉を剝ぎとられた私自身の観念にのみ思考を集中するかぎり、どうして私がいとも簡単に誤るのかが理解できなくなる。私が考察する対象を、私は明晰かつ十全に知る。もってもいない観念をもっていると思って欺かれることなどなくなる。
我々はいまや、抽象作用という概念の他のケースにおける乱用についても、安んじてこれを退けることができるのだ、とバークリーは言う。
思考の対象とはなっていないが存在しているもの
『人知原理論』では、「思考しない事物」「思考しない実体」「思考しない基体」と呼んでいる
「思考の対象とはなっていないが、しかし存在しているもの」とういう言葉の構成は、「不等辺三角形でも二等辺三角形でもない三角形」と同様にまったく文法にかなっている。
公共的言説はこれらのシラブル(音節)を結び付けうるかもしれないが、言葉から自由になった精神的言説の中には、対応するものが何もない
「思考されていない存在者」( unthought existent ) という言葉に対応する観念が存在するか
「存在するとは知覚されていることである」、その証明
観念が存在するかどうか私が知りうる唯一の方法は、私自身の内面をのぞきこんで、対応する対象を探してみることである。
我々が思考の内に見出しうる対象は、すべて思考の対象である。
それゆえ、我々は、「思考の対象とはなっていないが存在しているもの」という言葉によって表される観念を、決して見出さない
存在するものはすべて、思考にとって現前する対象でなければならない。
思考にとって現前する対象は、知覚されている
18世紀に生じた意味で見られている( seen )のではなく、デカルト的意味で知覚されている( perceived )
存在するとは知覚されていることである
この証明について
哲学者たちの間に永くその名声を響かせて来たものの中でも、最も途方もないものとして広く認められている
定式化された概念枠の中では、その証明の各ステップは説得的であると私(イアン・ハッキング)には見える
(もちろん論駁不可能ではない、しかし説得的ではある)
そればかりではなく、この証明はねらっているとおりのことを果たしている。
我々が 観念 - 対象 - 知覚 という言葉を身につけるやいなや、「今年の春、森にはスミレが咲き乱れていた」ということを言明することは正しい、ということがわかる
日常的な概念によっている人々にとって真
この言明に対してバークリーが与える真理条件は、けちくさい精神しかもたない哲学者にとっては奇妙なものに思われるであろうが、
しかしそれは、バークリーにとっても、またもっと日常的な概念によっている人々にとっても、真なのである。
一方、粒子哲学のいう原子とか分子、物質という実体などというものは、いまや、公共的言語の転倒によってその無神論的傾向を強められたところの、自然哲学者によってたてられた単なる砂ぼこりのように見えてくる。
夏の暑い日にさっと降る夕立のように、観念論がこの砂ぼこりを洗いしずめるのである
観念論と言語の関係
バークリーが観念論のために提出した多くの議論(言語とは関わりをもたない議論)は、我々がいかに事物を認識するのか、という認識論的なものである。それらは17世紀の懐疑論からとってきたものである。
しかし、言語による議論はむしろ新しい発明である。
たしかに、その目的の中心は、我々が言語によって誤って導かれる、ということを示すところにある。
しかしこれが話のすべてではない。
観念は、精神的言説を構成し、公共的言説に先行する
言語に関するバークリーの理論の中心は、私が自分の精神を、言葉をはぎとった自分自身の観念に限定するならば、私は容易に誤りえない、というところにある。
(私の)観念の連鎖は精神的言説を構成し、この言説は我々を惑わせる公共的言説に対して、論理的に先行する。
精神的言説に関する積極的な理論こそが、(バークリー『人知原理論』の)「序論」の議論にとって決定的であった
5章 「誰の理論でもない意味の理論」
意味の理論
我々はホッブズたちの理論に対して、オルストンによる意味の理論の素晴らしい分類 ― 観念説。指示対象説、行動説 ― を貼り付けることがいかに(奇妙にも)困難であるか、ということを見てきた。 我々は、同じカテゴリーを現代の哲学者たちに適用することには何の困難も経験しない。それには説明しうる理由がある。
我々が問題にしているかつての経験主義者たちの中には、このような意味での意味の理論をきちんとした形で提供しようとした者は、誰もいなかった。
「かつての経験主義者」とはこれまで述べてきた観念論者たちを指す
彼らにとっては、現代の哲学者たちが「意味の理論」と呼ぶところのものは、大した問題とはならなかった。
「彼ら」は、観念論者たち
我々の同時代人たちは、しばしば「言語の哲学」を「意味の理論」と等置する。それは現今の哲学的分析をもって、誤って解釈することになる。
(彼らにとって)言語は問題であった、しかし、意味は問題ではなかった
言葉は観念を表示する
もう一度、観念の理論と格闘してみよう。
観念の理論は言語と密接に結びついている。
それは「言葉は観念を表示する」からである。
ジョナサン・ベネットの「言語の翻訳説」
もしもこの理論が「意味に関する観念説」であるとすれば、そのとき言葉の意味とは観念であるということになる。一つの文の意味は、観念同士を結びつけた思考であるか、あるいはそうした思考そのものが一つの観念であるといわれよう
話される言語の用途の一つは、意思伝達である。私は精神的言説をもち、あなたもそれをもつ。私は声に出して話し、それによってあなたの内に意図した精神的言説を生み出す
これをジョナサン・ベネットにならって、「言語の翻訳説」と呼ぶことができよう
私は自分の精神的言説を、話される言葉に翻訳し、あなたはそれを聞いて、また精神的言説へ再翻訳する
あなたと私の胸の内に同じ「観念」をもたなければならない
観念説と結び付けられた翻訳説にとっては、この二重の翻訳がきわめてしばしば成功することが肝心である。
あなたは自分の胸の内に、私が私自身の内にもつのと同じ観念をもたなければならない。
このことは、あなたが私の意見の一致を見なければならない、ということではない。
「このコーヒーはひどい」
私がつぶやく。あなたは違う意見である。
(意見は異なるが)少なくとも、あなたは、私が「このコーヒーはひどい」と言ったときに精神の内に持っていたのと同じ観念の連鎖をもっていなければならない
観念の連鎖
(ひどい + コーヒー)
言語に関する翻訳説によれば、
わたしは自分の胸中に一連の観念をもち、それを言葉に翻訳した
あなたはそれらを翻訳し、自分の胸中に一連の観念を生成した
どうやって同じ観念を有していることを知るのだろう
私はどうやって、あなたが私と同じ観念を有していることを知るのだろう。
私はあなたの精神をのぞきこむことができない
「(言葉の)観念 - 翻訳説」をとる者は、複数の話者の精神の中にある観念に関して、その同一性の判定基準を示さなければならない。
ロックは疑いもなく、次のように言っている
「人が話すときに、彼が言葉によって表している( stand for )のと同じ観念を、聴者の内にも引きおこすのでなければ、彼は知解可能な形で話しているとは言えない」
ロックは「同じ観念」の定義を示すべきである。また聴者の内に話者の内にあったのと同じ観念が生みだされていたことを証明しなければならない。
しかし、(ロックも含めて)昔の哲学者たちは誰一人として、そのような定義を示すことに頭を悩ましたり、観念の(話者と聴者の)間人格的な同一性を証明しようとしたりはしていない
それゆえ彼らは「(言葉の)観念 - 翻訳説」を取っていなかった。
同一の対象が、私とあなたに、異なった観念を生みだすことなどあろうか(いや、ない)
ロックが(『人間知性論』で)観念の同一性に語っていることは、言語との関わりにおいてのことではない。次のことを問うている。
ジョン・ロック『人間知性論』より
「同一の対象が複数の人間において異なった観念を生みだすことが可能であるかどうか」
ロックの示す例は生き生きとしたものである。彼は問う。
「スミレが一人の人間の眼を通してその精神の内に生みだした観念が、キンセンカが別の人間の内に生みだした観念と同一であるとしたら、どうなるであろうか」
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今年の春まだ早くに、ナップウェルの森に咲いていたスミレはデリケートで陰影の深い森の葉陰にひっそりとしていた。
私の庭に今咲き乱れているキンセンカは猛々しい姿をしている。
スミレは、詩人の言う「はにかみやの、」というこの花にはぴったり合う
キンセンカは、厚顔(あつかましい、恥知らず)である
問題は私が「キンセンカを見ろ」と言ったときに、それを聞いたあなたが、私がスミレを見るときに形成するところの像を形成するかどうか、ということではなく、
ロックが問題にしているのは、我々二人が私の夏の庭(キンセンカが咲き乱れる)を見たときに、我々はともに花の観念を作りだしながらも、あなたの観念は私の観念と似ていないで、むしろ私が春の森の中でぶらついていたときに得た観念と、ほとんど同じだというようなことがあるだろうか、と問うている。
ロックは問題をこのように鮮やかな形で提出した上で、これを斥ける。
ロックはそもそもそんなことが生じうるかどうかを疑う。この問題を追求すること自体、無意味であると考える。
あなたの観念を私の観念と取り違えることはない
ロックはこう続ける
「いずれにしても、私の庭のキンセンカを見て、あなたが私ならスミレの観念と呼ぶであろうところのものを観念としてもったとしてもなんの誤謬も生じない」
「なぜなら、あなたの観念を私の観念と取り違えることはないであろうから、である」
決定的なのは、この一点である。
当時は、観念の取り違えということが、誤謬の源泉であったのであり、それも唯一の源泉であった。
このような理論は、デカルト的な自我からの必然的な帰結である。
デカルト的な自我と観念
デカルト的な自我にとっては観念のみが現前しており、そして世界の中の残りのものはすべて、観念から非演繹的な仕方で推論されうるのみである。
デカルト的な自我
演繹的推論
必然的
necessary
非演繹的推論
蓋然的
probable
我々が有する唯一の明証性は我々の観念の内にある。それゆえ、それらが我々にとっての唯一の誤謬の源泉である
明証性、明証的
エビデンス
我々が自己の観念を確固たる精神的洞観によって「見る」(視る)というこの理論は、デカルトから『ポール・ロワイヤル論理学』へと遺贈され、そしてその英国の弟子たちによってほぼ全面的にのみ込まれた。
「自己の観念を確固たる精神的洞観によって「見る」(視る)というこの理論」
洞観
それがキンセンカでもスミレでも誤謬は生じえない
あなたがキンセンカを見ながら、私であればスミレの観念と呼ぶであろうものを、あなたが観念としてもったとしても、そこから誤謬は生じえない。
なぜなら、私の内にあるものと、私の外にあるものを媒介するのは、「私の観念」だけだからである。
したがって、「私の観念」と世界とについて自我論的な追求を行っていた17世紀の認識論者にとっては、スミレとキンセンカの観念に関する問題は、大して重要性を持たなかったことになる。
視覚による知覚
(これらのことから、また、)ロックがなぜ、あなたがキンセンカを見たとき、私がキンセンカの観念と呼ぶであろうものを得るであろう、と考えたかについても理解することができる
なぜなら彼(ロック)は、感覚による知覚には、対象のまわりを跳ね回り神経の末端を刺激するところの微粒子が関与していて、この刺激がまた純粋に物理的な法則によって脳へとメッセージを伝えるという、デカルト的な考えを受け入れていたからである。
(あなたと私の生理と心理が同一であると想定するかぎり、)我々は、物理学と心理学の同じ法則が働いていて、同じ原因からは同じ結果を生みだしているに違いない、と考えることができる。
むこうに見えるキンセンカは、私の内に生みだすのと同様の観念を、あなたの精神に生みだすであろう。
隠れた指示作用
ロックは「意味の理論」などに興味をもってはいなかった。
別の点がこの点を例証する。彼は言う。
ジョン・ロック『人間知性論』(3.2.4)
「(たしかに言葉は、)話者の精神の内なる観念以外には、何物も本来的かつ直接的に表示することはできないが、
しかし人はその思考の内で、言葉に対して、他の二つのものに対する隠れた指示作用( serect reference )をも与えているのである」
「隠れた指示作用」の一方は「現実の事物」に対するものである。
「現実の事物」
ジョン・ロック『人間知性論』(3.2.5)
もう一方の「隠れた指示作用」は、
「共通の受けとられ方」
ジョン・ロック『人間知性論』(3.2.4)
「人は、その言葉が、自分が話している精神の内なる、観念の印となっていることを想定する。というのも、もしそうではなくて、人が一つの言語に対応させる観念が、その聴き手にとっては別の観念に対応されるのであれば、それは二つの言語を話すことであり、話しても理解されない、ということになるからである。しかし人はこの想定において、実際に自分と話し相手とが有する観念が同一のものであるかどうかを吟味しようとすることは、ふつうにはない。彼はただ、自分が想像するかぎりでのその言語の「共通の受けとられ方」( common acceptation )に従って、それを用いることだけで十分である、と考えるのである」
ロックはこの「隠れた指示作用」説を信じているのであろうか。私はこの語句そのものがロック独特のアイロニー(反語)に満ちていると考える。
(3.2.5)
「ここで次のように言うことを許されたい。言葉が表すものを、我々が自分自身の精神の内に有している観念以外のものとしようとすることは、言葉の倒錯的な用法でしかなく、その表示作用に不可避的な曖昧さと混乱とをもちこむことである」
表示作用とは先行―後続 関係のことである。
「共通の受けとられ方」、これは表示作用とはまったく違う何ものかである。
「シーザー」という名の「共通の受けとられ方」
或る発話における名前の役割を取り上げる
実在のマーク・アントニーが「私はシーザーを葬りに来たのだ。讃えに来たのではない」と言ったとする。
マーク・アントニーの精神の内には、シーザーの観念が存在していたということになろう。これがアントニーにとって「シーザー」という名の表示するものである。
第三者であるローマの(とある)平民もまた、(おそらくアントニーのものとは別の)シーザーの観念を持っている。これが彼にとって「シーザー」という名の表示するものである。
これらとは対照的に、「シーザー」という名によって言及されている(ついさっき死んだばかりの)現実の人間がいる
そして最後に、多分、公共的な領域に属する別の何ものかがある。誰もがローマの専制君主が話題になっていることを理解している。この皆に共有されている認識を、ロックの用語を借りるなら、「シーザー」という名の「共通の受けとられ方」と呼ぶことができよう。
この「共通の受けとられ方」が、アントニーに、群衆への演説を行うことを可能にする。
これ(「シーザー」という名の「共通の受けとられ方」)が、一つの言葉の確立された用法における、およそ「公共的なもの」のすべてである。
「共通の受けとられ方」は「本来的かつ直接的な表示内容」ではない。
ロックに対する、ベネットの批判
ベネットによれば、ロックは二つの問いを「純粋に区別していない」
(a) あなたは「スミレ」によって、私が意味しているものを意味しているか。
(鍵カッコつきの「スミレ」は、(なんらかのスミレという事物を表す)「スミレ」という言葉のこと)
(b) スミレは私に対して与える感覚的刺激と同じ刺激を、あなたに対しても与えているか。
ロックは「これら二つを、次のような単一の問いの二通りの言い方ととっている」。すなわち、
(c) あなたのスミレの観念は、私のものと同じであるか。
ベネットの批判に対する、ハッキングの例示
ロックは「意味する」( mean )という言葉を使っていないのであるから、事態はもっと複雑であると考える。
「ロックは「意味の理論」などに興味をもってはいなかった」
問(a) の中の「意味」を、それぞれ「表示内容」「指示対象」「共通の受けとられ方」に言いかえてみる。
(a1) 「スミレ」はあなたにとって、それが私にとって表示するものと同じ概念を、表示しているか。
(a2) 私がいま「今年の春、庭に咲いた最初のスミレ」と言うとき、私は、あなたがここでいま同じ言葉(「今年の春、庭に咲いた最初のスミレ」)を発したときに指示しているものと同じ植物を、指示しているか。
(a3) あなたの属する共同体においては、「スミレ」は私の共同体と同じ、「共通の受けとられ方」を有しているか
ベネットのもう一つの問(b) を次のように言いかえてみる。
(b1) あなたがスミレを注視するとき、そのスミレは、私がそれを注視しているときに私の内に生みだす観念と、同じ観念をあなたの内に生みだしているか。
ベネットに対する、ハッキングの批判
ロックが二つの問いを区別しそこなっている、、というベネットの言葉は正しい。
ロックが区別しそこなっているのは (a1) と (b1) である。
(a1) と (b1) とは別のものであるが、それらは少なくとも、(色盲の場合のような)こじつけを考えるのでなければ、パラレルな答え、あるいは同一の答えを得ることになるであろう。
パラレルな答え?
parallel
類似した答え
私は (a1) と (b1) の区別を、厳密にしそこなうということからは、大した問題は発生しないと考える。
しかしながら、ベネットは「意味する」によって「表示する」を意味しているのではない。ベネットは、ロックが言うところの「共通の受けとられ方」を意味しているのである。
つまりベネットはロックが (a3) と (b1) を混同した、と言って非難しているのである。
ロックはそのような混同を犯していない。
ベネットの誤りは(現代の我々にとっては)、容易に犯しやすいものである。
「表示の理論」「意味の理論」
(現代の)我々にとっては、「表示する」( sighify ) は「意味する ( mean ) を意味しうる。
したがって「表示の理論」は「意味の理論」であり、「意味の理論」は(ベネットにとっては)「共通の受けとられ方」の理論である。
しかしながら、ロックは「共通の受けとられ方」に関して、何の理論ももっていなかったのである。
ここで必要となる区別は19世紀になるまで、有効な形では、なされなかったのである。
「意義」( Sinn )と「指示対象」( Bedutung )
17世紀から19世紀(、そして現代)へ
彼は「意義」( Sinn ) という言葉を、「共通の受けとられ方」として理解した。 この語は英語において meaning と訳されてきた
最近では sense と呼ばれている
彼はこの語と対照させて「指示対象」( Bedutung ) という語を用いた。 おなじくこの語も meaning と訳されてきたが、
今では reference という英語が定着している
「記号( sign ) と、その意義( sense ) と、その指示対象( reference ) との間の通常の結びつきは次のようなものである。 記号に対して、一つの確定した意義が対応し、そしてこの意義に対して、一つの指示対象が対応するが、しかし、或る一つの指示対象(一つの対象)に対して、単一の記号のみが属するということはない。同一の意義が、異なった言語間では複数の異なった表現を有するし、また同一の言語内部においてもそうである」
フレーゲは言葉の意義および指示対象と対比して考えられる、言葉に結びついた「観念」というものについても語っている。
ロックとフレーゲの間(の歴史)には、多くの哲学が存在したのであるから、「観念」という言葉ももとの場所にとどまっていたわけではない。
ロック
ホッブズ
(ポール・ロワイヤルの)アントワーヌ・アルノーとピエール・ニコル
バークリー
ヒューム
カント
コンディヤック
ヘルダー
ヘーゲル
このことはこの言葉がドイツ語に翻訳され、そしてまた英語へと再翻訳されているという場合、よけいに保証できない。しかし、次の文章が理解可能な程度には、(「観念」という言葉の意味について)保存されているものがあるといえるであろう
「記号の指示対象と意義とは、記号に結びついた観念( associated idea )と区別されねばならない。
或る記号の指示対象が、感覚によって知覚される対象であるとすれば、それについての私の観念は内的な心象であって、それは私がかつて有した感覚印象と、私が内的あるいは外的に行った行為との記憶から生じるのである。
こうした観念は、しばしば感じ( feeling )に満たされており、その部分部分の明瞭さはさまざまであり、しかも揺れ動いている。同一の意義は、同一の人間においてでさえ、同一の観念と結びついているわけではない。
観念は主観的である。一人の人間の観念は別の人間のものとはならない。その結果、当然のことながら、同一の意義に結びついたさまざまに異なった観念、というものが生じることになる。
これが観念と、記号の意義との本質的な相違を作っているのであり、意義は多数の人の共通の所有物でありうる以上、個人的な精神の様態の一部ではないのである。
人は、人類が一つの世代から次の世代へと伝えられる共有された思考の累積をもっている、ということを、否定することはできないであろう」
意味の理論
私は今後は、「意味の理論」という語句を、フレーゲが「意義」と呼び、ロックなら「共通の受けとられ方」 と呼んだであろうものについての理論を含むものとして、使用する。
「意味の理論」は、言語の本質的に公共的な側面に関わり、言いかえると「スミレ」という言葉において、我々がナップウェルの森の花について語りあうことを可能にするような、あなたと私とに共有されている何ものか、について関わるのである。
フレーゲは「意義」が存在しなければならないと考えた。なぜなら、思考と命題の共有された蓄積が、一つの世代から次の世代へと伝えられているうからである。
分析哲学という厳しい学問によって、その主たる教育的訓練を受けてきた者にとっては「意味の理論」という我々のカテゴリーを特徴づけるために、フレーゲの用語法を用いることは、きわめて自然なことに思われるであろう。
フレーゲが書いていた時代には、「意味」が怒涛のごとく荒れ狂っていた。
彼の時代には、あらゆる学問領域が、意味にもとづいた批判とか、意味についての理論とかを有していた。
J.B.スタロー ?
近代社会学の偉大なる祖 マックス・ウェーバーは、その分析を始めるのに、行為の客観的意味と主観的意味の区別ということをもってした
フロイトの精神分析は、「意味の理論」以外の何ものでもない。
フレーゲは、語、文、言語コミュニケーションに対するその研究の集中にも関わらず、意味の全盛期に加わった多くの理論的代弁者の一人にすぎないのである。
私は、哲学の一つの分科において優勢になった、或る特殊な種類の「意味」への関心を指示するためにフレーゲを用いるが、これは社会学における一つの流派を支配することになった、或る種の「意味」への関心を特徴づけるために、ウェーバーを用いるのと同様の事情である。 ウェーバーもフレーゲも(そしてフロイトもマッハも)、 "Sinn" (意義)と "Bedutung" (指示対象) という同じドイツ語から出発するが、彼らは別々の途を歩んでいる。
意味の理論においてフレーゲ *のみ* に固執する理由
私がこれを用いるのは、私のケース・スタディがすべて一種類お哲学的分析から引き出されたものだからである。以下の章における例はすべて、フレーゲに対してその嫡出子という関係に立っている。
以下においては、例外なしにフレーゲの特殊な境界づけが用いられる。
フレーゲは、彼の同時代人のすべての人々と同様に、公共的な意思伝達を彼が記号に結びついたプライベートな観念と呼んだところのものによって説明することは成功しない、と考えた。
「フレーゲと彼の仲間たち」と「ロックと彼の仲間たち」の違い
ロックと彼の同時代人たちは、この点について明瞭に理解するということがまったくなかった。そんなことを気にもしていなかった。
(ロックの研究の中では、)外的な刺激がいかにして精神の内なる観念を生みだすかという、ほとんど物理学的な推論の問題であった。
疑いもなく外的刺激は或る種の規則的な仕方で、これを行っている。それゆえ、同一の外的刺激は同様の内的結果を生み出すであろう。
あなたが「黄金」という言葉に対して、私がこれに結びつけるものと別の観念を結びつけるとしたら、我々はおそらく物理的、心理的な理由からして、意思疎通に失敗しているのである。
ロックは意味の理論を持っていなかった
ロックにとって公共的意思伝達(ないし「共通の受けとられ方」、あるいは意義)は、彼の哲学にとっては何ら重要ではないのである。
ロックは意味の理論を持っていなかった。彼は公の言説についての理論を持ってはいなかった。彼は観念についての一つの理論を持っていた。それは精神的言説についての理論である。
一つのパラドックス
私は一つのパラドックスを明らかにするために、この点をくどくどと述べたのである。
現代の分析哲学者たちの間では、ロックやバークリーのような思想家は、今日、我々にとって課せられているのと同じ形而上学・認識論上の基本的問題に関心をもっていたのだ、という説が広く信じられている。
そのうえさらに、こうした問題に対する彼らのアプローチの仕方は、意味に関する彼らの理論によって決定されている、と信じられている。
私は、これらの哲学者たちは、今日あたえられているような意味では、意味の理論をもってはいなかった、と言いたいのである。
彼らは我々の問題と同一の構造をもつ何事かについて研究していた。ただし、その中で現在は公的な事柄が割りふられている座席が、当時は指摘な何ものかによって占められていた。
精神的言説から公共的言説へ
精神的言説が当然のことと考えられていた時には観念が(デカルト的な)自我と現実とのインターフェイスであった。
我々は精神的言説を公共的言説によって置きかえた。
そして「観念」は理解不能なものになった。
公共的言説という領域の或るものが、今では認識主体と世界のインターフェイスの役割を果たすのである。
観念の全盛期、意味の理論の不在
17世紀の彼らが、意味の理論について語る(ように見える)ことは、「哲学にとって言語が問題になるのはなぜか?」に対する助けとはならない。
反対に、「意味の理論の不在」ということをこそ、言語がなぜ今日、哲学にとって問題になるのかを理解するための、データとして取り上げようと思う。
観念の全盛期の4つのケース・スタディは、精神的言説が問題となるケースであった。そこには意味の理論は何もない。
次のステップは、公共的言説が問題となり、そこに意味の理論が存在するようなケースを集めることである。
我々は何世紀かの間を飛び越えて、このコントラストを強めることにする
(了)
end: